寺院の沿革

 

○正覚寺の沿革

 寺伝によれば、もとは紀州根来寺(和歌山県岩出町にある新義真言宗総本山根来寺)の末寺で「摩頂山圓通寺智光院」という寺院であった。しかし、天正十三年(1585)、豊臣秀吉が大軍をもって和泉から根来に入り、根来・雑賀の一揆を鎮圧する。その兵火を受け、和泉一帯の根来勢力はほぼ一掃される。別の寺伝には次のような記述がある。

「茲ニ天正十三年根来兵乱蜂起シ、當城戦乱騒擾之時、堂宇儘ク被為破壊、此時古来之山院寺號隠滅セシ」

つまり、当寺もこの戦乱の兵火に合い、堂宇が悉く破壊されたようである。

よって、開創年代を詳らかにすることはできない。そして、天正兵乱以後、根来寺の勢力は急激に衰える。和泉地方一帯の人々も、明け暮れる戦乱に疲れ、真の救いを求めて浄土宗のお念仏に帰依の心を深めていく。当寺も新義真言宗から浄土宗へと人々の求めに呼応していく。

浄土宗としての第一世は、團蓮社傳誉上人である。位牌も無く、入寂年歴不詳であるが、「當寺開山團蓮社傳誉和尚」と書かれた御名号一軸が現存するので明らかである。その後、二世 玉誉上人(入寂年歴不詳)が文禄二年(1593)に中興し、寺号のみ改称して、正覚寺と名付けた。

元和元年(1615)大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、ようやく戦乱の世に終止符が打たれる。このころ、根来寺より宰相行順大徳(宰相=僧侶でありながら俗世間で政治に参与し、大きな影響力を持つに至った権力者の側近の意か)が来錫、正覚寺第三世となる。

寺伝には「三世之住宰相行順者真言之僧徒也。改宗之後、専勉浄教矣。然或夜當寺鎮守天照太神告夢、行順汝此地者念佛三昧之霊場開示群生之旧跡也。西海岸聳月輝窓中、東山峯晴日照此邑、勤行不懈者守護亦無閣。愕然而夢覚畢。従尓山名日照院名寶池者也。」とある。

これによると、宰相行順大徳はもと根来寺の僧侶であったが、兵乱に合い、その後、正覚寺に来て浄土宗に改宗したようである。そして、浄土の教え、お念仏を専らにしていたところ或る夜、当寺の鎮守である天照太神の夢のお告げがあった。

「行順よ、ここはお念仏の声の絶えることのない霊場である。また、ありとあらゆるものに教えを説き示すべき処である。西方の海岸に聳えた月の光が窓の中に輝き、東の山々は晴れ渡り日の光がこの村を照らす。念仏を怠るな、さすれば我も見守っていよう。」

驚いて我にかえったところ、夢は覚めた。

そして、山号を日照山、院号を寶池院と名付けた。

以上、この三代によって浄土宗としての正覚寺の礎が築かれたのである。

☆追記 新義真言宗総本山根来寺を開かれた真言宗中興の覚鑁上人は房号を「正覚房」と名乗られて       おられました。その覚鑁上人の「正覚房」が当山の「正覚寺」の淵源かもしれません。また、覚鑁上人は真言宗でありながら浄土教との融合をお考えになられたお方ですので、浄土宗に近いお考えをもたれていたのでしょう。だからこそ、正覚寺も新義真言宗から浄土宗に変ったのかもしれません。